こんにちは、『3月のライオン』のアツさが大好きなマンガライター、中山今です。
今回は『3月のライオン』16巻の感想を書きたいと思いますー
なんていうか、もうあのアツさは帰ってこないのかもしれないけど、それもいいかなあとか思ったりして。
改めてざっくりした『3月のライオン』全体のあらすじと、
16巻の感想をご紹介します。
『3月のライオン』16巻
【あらすじ】
孤独な天才少年棋士、桐山零。
脳をフル稼働させる将棋は、一度の試合で2~3キロ痩せることもあり得るほどの灰カロリーバトル。
また、足元がガラガラと崩れ落ちるような、死を意識するような孤独でヒリついた戦いでもある。
過剰な戦いをひとりで重ねる零は、いつしか浅草の和菓子屋の姉妹3人との縁を持つ。
そこで触れるあたたかな生活は、零の心に小さな明かりをともす。
その明かりを胸に、更なる将棋の深淵へ降りていく棋士の物語。
【16巻感想】
死にに行っていないな・・・・と思う。それは、良いこと・・・
16巻はとにかく温かい。
零はひなちゃんとあたたかなココアを飲み、棋士仲間と切磋琢磨し、誰も切迫感を出さない。
合間に挿入される宗谷名人の実家エピソードも(よく考えると悲惨だけれど)、ほっこりあたたかな新キャラとお話で誰も傷つかない。
思い立ってその前の巻、15巻を読み返してみたのだけど、もうまったく全然違った。
15巻に多用される「試合中に息が詰まる、おぼれる」といった閉塞感のイメージ、「暗い部屋に飲み込まれる」といった不安と自己の喪失のイメージ。
そのマイナスな状況を、あがいてあがいてもがいてもがいて、血にまみれながら浮上する。今日浮けても明日はわからない、圧倒的なヒリヒリ感。それが私の『3月のライオン』のイメージ。
16巻は、そのイメージを覆すものでした。
でもなんか、私思ったんです。
これって大人になったんじゃないかなって・・・
私事ですが、最近「1960年代スポ根ブーム」を勉強する機会がありました。
特に『あしたのジョー』『巨人の星』といった梶原一騎原作作品を読み、関連資料を読みました。
あれは高度成長期の純文学で、体を痛めつけ、プライドと共に死ななければいけない物語でした。
それはニヒリズムをはらんだムチャクチャかっこいいものではあります。
しかし同時に未来のない、死にに行くだけの物語でもあります。
『3月のライオン』16巻はその選択をしなかった。
桐山零は幸福を知り、死ぬためではなく生きるために棋士をしている。
そういう描写だなあと思いました。
最近なんか見たことあるぞ、と思ったら、これ『シン・エヴァンゲリオン劇場版』観た時と似てます。
エヴァでも20年にわたる劇場版で、一時期はきっと監督自体が死にたい、苦しくて仕方がない映画に仕上がっていました。
でも2021年公開の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』で、各登場人物たちは全員がそれなりの納得感のある妥協点を見出し、後ろを振り向かずに去っていきました。
前向きで明るい、生きるためのエンドで、非常に良いものを観たなあと思っています。
で、『3月のライオン』に話を戻すと、「死ぬほど悩んで戦って、いつでも死が背中に迫ってる」みたいな切迫感の出し方、エヴァみたいにもうやめたのかもしれないなって思って。
それは間違いなく『3月のライオン』のアツさだったけど、ひょっとしたらもう戻ってこないんじゃないかなとか。
でも私個人はそれでいい気がしています。
死ぬのはよそう、死ぬのは。やっぱ生きた方がいい。ウン。
あと作品とは関係ないところですが、ひょっとしたらコロナ禍も関係しているかもしれませんね。
世界的な危機感と停滞ムード。
それは気分のいいものではありませんでしたけど、人によってはお休みになったのかもしれません。
将棋で死なんでも、コロナで死ぬかもしれない。
人間、1960年代みたいな上り調子の社会情勢より、今みたいな経済的にも物理的にも死の可能性がある方が、死にに行かないコンテンツになるのかもしれない。
今回はなんとなく、思ったところを書いてみました。
17巻以降はどうなるのかな。次巻が待ち遠しいです。