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『アンチマン』感想~SNS悪意を集めて、物語システムに落とし込む意味~

 こんにちは!「だって現実は酷いのだから創作もそうじゃなきゃ表現できないじゃん」、バイオレンス漫画ラヴァ―中山今です!!!!

 

 本日は読み切り漫画『アンチマン』の感想を書きたいと思いますー

 

 作者は岡田索雲。『メイコの遊び場』で精神をもてあそばれ壊される男たちを、『ようきなやつら』で日本社会にまとわりつく差別を妖怪メタファーとして描く鋭い視点の作家です。

 

↓『ようきなやつら』の紹介はブログエントリもあります。

ima-nakayama.hatenadiary.com

 

 今回の『アンチマン』は、暗喩なし、忖度なしの「ある属性」の男性批判になりうる漫画。作中起こるイヤ~な事件はすべて、SNSのどっかで見たことのあるような話題。

 

でもこれってマジなの?ほんとにこんなことあんの?」を、物語として構成したのが本作だと思いました。

 

 なんとなーく思っていたことに形を与えるのは、物語のお得意です。そしてまとめたことに意味があるんじゃないかと!!!

 

 そして、誰しも嫌がる題材だからこそ意味があると思います。

 見て楽しい漫画じゃありません。でも、目をふさぐのもまた問題ではないかなーと。

 

 ・・・ものすごいバックリした話でよく分かんないですよね?ハイ、↓で書いていきます。順序を追って書いていきますね。

 

※ネタバレするので読んでみてから感想を見てみてくださいね。性加害や傷害の表現があるのでメンタルが安定している時にどうぞ。

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『アンチマン』

作/岡田索雲

掲載/webアクション(双葉社)

掲載日/2023年06月02日

 

 

【あらすじ】

父親を介護しながら食品会社に勤務する溝口。彼は、日常で蓄積した鬱憤を“ある方法”で発散していた……。『ようきなやつら』の岡田索雲が描く、アンチの哀歌。

 

岡田索雲『アンチマン』双葉社Webアクション作品ページから引用(閲覧2023年06月02日14:35)

 

 

 

 陰湿で、救いがなく、追い詰められる作品であり、「あるか無いかよく分からない悪意を拾い集めて物語にした」作品である。

 

 主人公、溝口は、寝たきりの父を介護しながら暮らす男性だ。彼の生活は暗澹としている。

 溝口の目覚めは、父親の尿瓶に溜まった尿を捨てるところから始まる。

 満員電車に揺られ通う会社では若い女性社員やリベラルな男性にアイディアをひっくり返される。疲れて帰り、寝しなに父のうめき声を聞きながら眠りにつく。

 

 『アンチマン』では「悪意」がたくさん登場する。それもあるのかないのか、はっきりと自覚することのできない、どこかのSNSで見かけたような悪意だ。

 

 溝口のストレス発散は「路上を歩く見知らぬ女性へのぶつかり」だ。作中、溝口自身も言っているが、女性に故意にぶつかることは「犯罪であり傷害罪」である。しかし溝口はそれを密かに行っている。

 また生活で接点のある女性に性的、とりわけ性加害を加える妄想を働かせることも彼のうっ憤を晴らす行為であると言える。※作中では女性を犯す表現があるが、夢か現実か判然としない。犯罪への反応が現実に近しい本作では、直接的な性加害表現については溝口の妄想や夢なのではないかと思う。

 そしてもちろん友人はいない。

 

 そんな溝口の対話の相手は、SNSの女性アカウントだ。溝口は夜な夜な酒を飲みながらひとりスマホを通して女性アカウントと熾烈な口論を繰り広げる。溝口は女性アカウントへ無理筋な持論を展開し、女性アカウントたちは溝口を責め立てる。

 しかしこれも性加害同様、現実に対話しているか疑わしい。作中のスマホ表現はデフォルメされた象徴的な表現が取られている。そもそも現実のSNSだってアカウントの中身が人間かなんてもう誰も分からない。

 ただとにかく溝口はSNSで誰かに悪意をぶちまけている。その相手が人間だろうが、botだろうが、自分を認め、屈服させるための反社会的な理論(ぶつかり行為は犯罪だがそれを認めようとは決してしない)を相手にぶつける

 

 

 作中、溝口はずっと非合理で傲慢で卑屈だ。しかし溝口に関わる人間もまた、清廉潔白でない。

 

 SNSで溝口に批判を浴びせる女性アカウント。彼女ら(実在すればだが)もまた、正義の名のもとに見知らぬアカウント(溝口)に言論の暴力を振るう加害者である。溝口が幼いころから好きな特撮番組の新作に目を輝かせることに対し、偏見と決めつけで溝口を罵る。

 会社の若い女性に「女性ならではの繊細さ」というジェンダーバイアスを強要するのは溝口の上司だし、既婚者でありながら会社の同僚の女性を車に乗せて走り去るのはリベラリストの男性である。

 

 そしてなにより、溝口がこどものころ、溝口の父は溝口の母を殴り、母は溝口を捨てて出ていった。それは幼い溝口への加害だ。

 

 悪意はすべてぼんやりと隠されている。

 女性へのぶつかり行為も、SNSでの誹謗中傷合戦も、好意的に見える上司が大いなる偏見を持っていることも、介護士へのセクシャルハラスメントも、自宅介護の負荷も育児放棄も、すべてが密かに行われる。より弱い人に負担をなすり付け、被害者は泣き寝入りして黙らせられるシステムになっている。作中に起こる電車内での無差別傷害事件の際、溝口は女性に性暴行を加えようとした。しかし傷害犯に刺されたことで、性暴行の罪は隠される。作中の悪意をすべて把握しているのは読者だけだ。

 

 『アンチマン』の意義は、隠されていた悪意を集め物語として構成し、その悪意そのもののみならず、周辺の悪意もまたオープンにさらしたことだ。

 

 『アンチマン』では、

主人公溝口の悪意として

  • 女性へのぶつかり行為
  • 女性を性暴行して支配したいという願望
  • 女性に無理な理論を延々続ける粘着

 

主人公溝口ではない悪意として

 

などが登場する。

 

 これらの悪意は、実際に加害を経験した人もいるだろうし、全く経験したことのない人もいるだろう。しかしSNSの噂では聞いたことがあるような気がする。そんな手触りの無い悪意だ。

 

 この点、物語はいわゆる「状況証拠」的な役割を果たす。

 状況証拠とは、直接的な証拠ではなくても、相対的な理由(AがあったならBもあっただろう)からの推論的な証拠のことである。

 物語の作中で起こる事件は何かがきっかけで起こる(ことが多い)。作劇をするためにキャラクターAが行う加害と同時にキャラクターAに加えられた加害も芋づる式に浮かび上がる。物語として進行させるうえで、キャラクターA(溝口)のみを邪悪として話を進めるのでは作劇に説得力を欠く(そういう偏った視点の創作、見たことがあるはずだ)。

 溝口にストレス解消の性的な目で見られる介護士や女性社員、ぶつかられる女性たちには何の罪もない。しかし溝口の悪意の発生源として、溝口の精神を押しつぶす一対一の自宅介護のシステム、誹謗中傷の吹き荒れるSNSのシステム、母親が出ていくと家庭が機能不全になる日本のイエシステムなどが要因として引きずり出される。更に溝口に直接関係のない罪もずるずるとあらわになる。

 これらの悪意すべてに経験がなかったとしても、もし1つでも経験したことがあるなら、状況証拠的に説得力を持つ。2つあれば更に説得力が出る。3つ、4つともなれば「これ、知らないけど本当にありそうだな」という感想に至るはずだ。

 SNSでしか見たことのない悪意が絡まり合い、互いに不可欠な要素として支え合い、大きな悪意を示す。『アンチマン』は「SNS悪意」をキュレーションして物語にし、全体に説得力を持たせたものだ。

 この悪意の群れと溝口の大いなる悪意を見たとき、読者は戦慄するはずだ。「こんないやなことが本当にあるのかもしれない」と。

 

 

 本エントリーの副題として使用した

SNS悪意を集めて、物語システムに落とし込む意味」

のアンサーは、

「あるのかないのかよく分からない悪意を集めて、説得力のある起承転結にまとめることで、現実の幾多の悪意を読者が状況証拠的に「発見」することができるのではないか?」

である。

 

 

 

 作中に起こった、電車の中の無差別傷害事件。作品中ではこれだけがオープンになった犯罪だ。醜い欲望を爆発させ、致命的な暴力として発揮した。そして皮肉ながら、この事件によって溝口の悪意は強制的に終了させられ、そして溝口に許しが訪れた。

 これは『アンチマン』自体の姿に近い。暴力的な悪意のオープン。「こんなもの見せられて精神的に苦痛を感じた」と思う人もいるだろう。表現は決して非暴力ではない(もちろん法には触れていないが)。

 しかし悪意を隠し続ければ、それはより弱い人を痛めつけるシステムに固定化していく。醜い、汚い、いやらしいもの。これをオープンにして「存在すること」と自覚することで何かが進む。その足掛かりとして、『アンチマン』を読む。

 

 

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 漫画なんですよ。漫画。虚構です。

 でもねえ、現実に起こってることを漫画とか読んで「えッ、こんなことやる人いんの!?こわ!」と気づくことってとってもよくあることです。ドラマのDV男の描写を見て、DVっていう犯罪を知る・・・ってこと、あるんですよ。

 

 評論家のサミュエル・I・ハヤカワが評論『ポピュラー・ソング対実人生』で、以下のように述べています。

 

 文学的象徴(虚構)によって、我々は、我々がまだ経験する機会を持たなかったような感情や状況を大地的に経験できるということである。この意味で、文学(的虚構)は「準備」である。

 

 編集・解説 鶴見俊輔『大衆の時代』 平凡社 1970年第3版p147~148より引用

 

 

 私たちの行動範囲って想像以上に狭いです。特に自分が平和な環境にいればいるほど、周囲の環境も平和でしょう。

 そういう環境にいるとき、漫画(虚構)からなにかの「引っかかり」を得ることって悪いことじゃないです。

 ただしサミュエル・I・ハヤカワは↑の言葉の後、「でもその虚構が嘘っぱちなことあるからノールックでリアルだと思い込むのマジでヤバい(意訳)」ということも述べています。なので引っかかりとして!議論するなら調べてから!

 

 でも、調べよう無いんですよねえ「ぶつかりおじさん」。加害体験オープンにしないですもんね。捕まるから。

 嫌な題材だから誰も調べない・誰も描かないモチーフで、描いてくれたのは完全に意味があると思います。ちょっと調べてみようかなあ。