第二次世界大戦時、呉に住んだ1人の女性の個人的な生活を綴る漫画。
当時の結婚観や食文化、生活などの風俗文化史として精緻な内容であるとともに、
1人の穏やかな女性の嫁入りと置いてきた恋、新しい家族、夫の過去の恋と友人の関係に静かに揺れ動くドラマでもある。
ここでは、容易に「暮らしのファシズム」に転化されてしまう内容と、その反論を書きたい。
「暮らしのファシズム」とは、大塚英志の著した書籍の名称である。
漫画原作者であり民俗学由来のプロパガンダを研究する大塚は、「ていねいな暮らしのススメ」にファシズムを見る。
それは女性向け雑誌「暮しの手帖」などに見る、慎ましやかで前向きな節約術などをさす。
これらは一見、主婦向けの素敵な生活の提案のように見えて、見方を変えれば節制を強要し過度に道徳的、現状に不満を言わず我慢をすることを美徳とする軍国プロパガンダであると大塚は言う。
『この世界の片隅に』は、上中下巻の3巻に渡って主人公すずの穏やかな生活が語られる。
嫁入り前、広島の実家で手をかじかませながら海苔をすく日、嫁してから小姑の連れてきた姪とあやとりで遊ぶ日、戦争に入って食糧難で飯を水増しする「楠公飯」を作り、不味さに絶句する日。
つましく、地味な日々ではある。しかし現代のスピード感と消費の価値観からすると、それはキラキラとした「ていねいなくらし」の光を放っている。
そしてそれこそ、「暮らしのファシズム」として「戦時を前向きにしなやかに生きた女性」というプロパガンダに容易に転換されるのだ。
NHKでは「あちこちのすずさん」という特集が組まれた。
「戦時を懸命に生きた人を教えてください」という、戦時に生きたことを美徳とするような口調で極めて危ういと思う。
しかしながら、本作は漫画、そして制作されたアニメ映画とも、戦争を礼賛する意図は無いものと私は思っている。
まさしく「あちこちのすずさん」のキャンペーンで、映画の監督を務めた片渕須直監督はこのようなコメントを寄せている。
>80年近く前の戦争がどんなものだったのかも含めて、「『戦争』が自分の身の回りにやって来る」とはどういうものなのか、感じていければと思います。
片渕監督は明確に「恐ろしい時代を生きるということ」を見せようとしている。
また、漫画の3巻目にあたる下巻で、すずは玉音放送を聴き穏やかなキャラクターから外れた激昂をする。
それは裏切られた怒りのように思う。
つましく暮らし、姪を亡くし、広島の実家の人々の生死もわからず、そのように努力し「協働」してきたはずの国家が、ラジオひとつで戦争を終わらせた。
すずと国家は対等であったはずだった。
すずの幼馴染の中原と再開した際、海軍兵である中原はこう言った。
「すずがここで家を守るんも
わしが青葉で国を守るんも
同じだけ当たり前の営みじゃ」
すずはそれに賛同していた。
だからすずは家を守るという形で海兵のように「協働」していたはずだった、
だが違った、国家は原爆という大きな暴力をきっかけに、すずに断りもなしに戦争を辞めた、それは一方通行の通知で、すずに選択権はなかった、
協働関係だと思っていたものは単なる暴力の流れの下流に過ぎなかった。
『この世界の片隅に』で描かれたのは、まるで親しい隣人や仲間のように振る舞っていた国家の大いなる裏切りであり、
むしろ
【「ていねいなくらし」に泥を塗る国家の醜い嘘に対しての怒り】
が主眼であると私は思う。
ともすれば「戦時の強くしなやかな暮らし方」のように取られがちな本作だが、そのつましく美しい「協働」が嘘であったことがバレる作品であると。
1人の女性の暮らし方に絞ったことにより、出版が可能になった側面もあると思う。
ていねいに暮らしていた女性がその尊厳を大きく侮辱され、なおも笑って許してくれるわけもない。
すずはしっかり怒っている。自分の「ていねいなくらし」を侮辱した国家を。
逆にその「ていねいなくらし」でマスクすることで出版にこぎつけ、信頼の裏切りを批判する作品だと、私は読んだ。