その日読んだ漫画や本の雑感をまとめておくエントリです。
リンク切れや無料期間公開終了などご容赦くださいませ。
本日は漫画10件、本1件の感想です。
【comics】
「[第94話]ラーメン赤猫」
ラーメン赤猫、グルメサイトの営業に失礼なことをされる。
えーと、まあかなり過去のことなんで。。
わたしはこの手の会社に都合10年ほど勤めてて(この手の会社は潰しが効くので他社間で転職して職歴的に「業界都合●年」とかになりがち)、
・・・・ありえる~~~~、みたいな(いい人もいたよ!!!)
赤猫ラーメンが無駄にならなくてよかった。ってか、ラーメン屋でキャンセルとか失礼通り越してなんかこう、雷に打たれる系のなんかがあってほしい
『断腸亭にちじょう』
大腸ガンになった漫画クリエイター、ガンプ。クリエイターの目とペンが、闘病記に多面的な漫画表現を加える。病を表現する新たな創造。
病、そして死期は、例えば事故や災害で即死でなければ、人間に100%訪れるもので、
マンガという表現方法でその超普遍的な出来事を語るのは幾度も挑戦され、そしてまた新たな表現が生まれる。
このクリエイターは本当にプロだなあと思うんだけど、
自分に起こっている病との付き合い、これを「創作として見ること」という目が確実にあって、
ホントなら出てこないじゃんか。「ページをめくるように手術の日になってほしい」とか。ガチの闘病してるひと、普通に日常で、病院行った後にも体力めちゃくちゃ使うかったるい帰宅やその後のご飯、毎回死を意識する排便、そういうもの全部体に染みてるわけで、でもそれを引き剥がして紙の創作物の時間軸に置き直して。
それは創作者としてもそうだし、読者としてもそうで、「自分の体験を紙の創作物」に落とし込んだら?っていう、ひとつ違うレイヤーがある。それをきっちりマンガ表現に落とし込めるすごみ。
何したって辛いのに、そこからもっとも漫画表現に適した自分の体験を選んで編集して描くその冷たいまでの俯瞰。
「[第146話]ダンダダン」
うひょ~~~!!
この書き込みこの密度・・・!
ガタガタガタ
確かこの作家さん、アナログ作画だったはずでは・・・?Twitterとかで原稿用紙で描いていたのを見た気がするよ!?
よーーく今回の回を見て「こ、ここは(画像ソフトで)増やしたカナ・・?」みたいなところもあったけど、それ以前、それ以前に。。週刊連載なのにこれかい!?
腕がもげてしまわないか、月刊にした方が良くないか、こんな才能、消費してしまわないほうがいいんじゃないかジャンプよ。。。もうそのレベルで心配。でもあの、眼福です。ありがとう作画の芸術。
「教科書売りの少女とオッサン」
21世紀末、経済格差は広がり、都市部中央と周縁では全く違う生活が営まれていた。
もらった教科書を売る少女ハルとその日暮らしの男が出会った。男は英語の教科書を買い、それと共に少女の時間を1時間取る。なぜなら男は元教師だから。
ここは19世紀のイギリスか20世紀初頭のアメリカか?いや。。もうすぐ直前に見えている日本だ。。。。
教育をフックにした希望と夢の広がり。ネットに蔓延する「勉強するとか意識高い」という冷笑を、素直に真面目に相手にしない姿勢が清々しい。
「教師になっても残業まみれな上に残業代もない」というクソみたいな吐露に英語だけじゃなくて労働法で殺せ!!!と念を送るわけだが、現実の本邦はこの前スクールカウンセラーを有償ボランティアにした(=労働者の権利を主張できないのでは)ので21世紀末にはもうなんの手出しもできないのかもしれない。(今はまだできるからね!!)
それにしても作中、英語の教え方が上手いですね?これで末尾「able 」の使い方を覚えたぞ!
英語を教えることが少年マンガの「修行」ターンになってて、そうだよなあ、勉強って修行して強くなるもんだよなあと・・・
『父子家庭はじめました 第26話(最終回)』
漫画家、渡辺電機(株)、父になる!
アングラギャグ漫画クリエイターが結婚したのはシングルマザー。ステップファミリーとしてスタートを切ろうとしたが、いろんなことがきっかけで小学生の娘と二人暮らしすることに。どうすりゃいいんだ!?えっちらおっちらパパ街道エッセイ。
渡辺電機(株)氏、61歳ということなんだけど、Twitterでもほんっとにお父さん業を頑張ってらっしゃるなあと(腰に気をつけて・・・!)
あんまり氏を知らなかったけども、絵は可愛くても元々はかなり尖った作風だそうで(調べてはいない)、60代ということであれば80〜90年代の、露悪的なサブカル時代の人だと思うけど、いわゆる本邦の男性をいろんな意味で縛る呪い・・・「有害な男らしさ」というものは見えず、とにかく子乗せ自転車で爆走する姿がずっとずっと描かれていた。
お菓子で気を引き、タブレットを渡して仕事をし、不登校気味の三児の世話を焼く。そこには生活があって。
カネや承認欲求ではなく生活にフォーカスすること、「有害な男らしさ」に対抗する方法の一つなのかもな、と思ったり。
モーニング 2024年18号
※色々面白かったのでダイジェストで感想※
『きのう何食べた?』
最終回レベルの盛り上がりだったけど最終回じゃないの、それもまた人生ですよねウンウン(この話、単行本収録されたら早くみんな見た方がいいよ)(人生ってこういうことなのかな)
『二階堂地獄ゴルフ』
いいのか、それ、いいのか!?それやっちゃっていいのか!?
くそう、上手い!散々地獄を見せてからの「ソレ」!!(ネタバレに配慮して歓声だけの感想をお送りしております)
『逢いたくて、島耕作』
相変わらず面白いな、あと1990年には「フィリピンと日本の通話料金が3分800円」って、これホントなら(ごめん調べてないので気になったら調べてみて)こーゆーの記録に残していかないと
『透明男と人間女~そのうち夫婦になるふたり~』
ファンタジー世界で多様性について誤魔化さずに出す漫画ですごくいい、すごく好きなんだけど、
視覚障害の夜香さんが点字タイプライターで事務職をこなす姿、視覚がない人がいることを当然の前提として社会構造が組まれていること、
また透明人間である透乃眼さんの「表情が見えない」という、視覚情報に頼る人では致命的なコミニュケーションの不足が夜香さんにはなんの障害にもなり得ないこと、
最新刊の5巻では夜香さんの家族が「過保護気味の家族が、視覚がない家族を視覚がないことで心配するのではなく、とにかく連れてきた彼氏!彼氏!彼氏を凝視する!」という営みの優しさを味わい
本当に素晴らしい思考実験SF(理想を謳うSFはあるべきだ)だと思うんだけど、
透乃眼さんと夜香さんの甘やかで穏やかなイチャイチャさがおれの心のやらかい所を今でもまだ締め付けるため、逆にうまく感想が言えずにいる。あの、おれ、こういうラブコメがその、好きで・・・いやあ。。照れますね・・・(これ恥ずかしいんだよッ)
『フールナイト』8巻
厚い雲が日の光をさえぎり
100年経った世界
冬と夜ばかりが続き、植物は枯れ、酸素が枯渇する
「転花」
環境問題の打破であり、同時に社会政策でもある手術。
それはすなわち、人間を植物に変える手術。
希望する人間に一括1000万円を付与。
代わりに2年をかけ、じわじわと体が植物に変化し、自我を失い酸素を生成するようになる。
それはすなわち、貧困者のセーフティネットであり、高所得者の酸素搾取。
神谷トーシローは1月9万円の給与で精神を患った母親と暮らす。徐々に徐々にすりきれて転花手術を受けたトーシローは、転花で植物になった「元ヒト」の声を聴くことができようになる。
酷薄なハイパーディストピア(管理社会)SFマンガ、8巻は革命勢力の真意。。。つまりこの作品における「真実」が明らかになるターニングポイントになる巻。
このマンガ、まさに管理社会・・・しかも「社会福祉だけを丁寧に取り除いた管理社会」で、
花になる手術、転花(=生命と引き換えに高所得者の酸素供給になる)が貧困セーフティネットになる最悪の設定。そこからずるずると引きずり出される、更なる貧困層集落における原始宗教の形成、政治勢力の無力さ、そして社会の枠組みを壊す大きな暴力の到来を願い作る科学者。
痛い、痛い・・・思考実験SFです。
そんでもってアクションもうまくて画も綺麗ってんだから最高です。ヒリついて、のち、アートとして受け取る。物語の大きな要素が「植物」なので、作中のいたるところに植物が出てきます。それは冷たい街の中に咲く、植生から切り離された人為的な植物。否、”人”。
【books】
『死なないための暴力論』
まずはソレルやベンヤミンといった哲学者の思想、そして非暴力主義と言われるガンジーやマルコムXの例を取り上げて「暴力ってそもそもなんだっけ」という定義付け。
その上で国家暴力(上からの暴力)、民衆の抵抗暴力(下からの暴力)を紹介、
また「今、うまくいってる武装革命」のロジャヴァ革命などを通して、「死なないための反暴力」について思索する。
上記文中にある通り、「非暴力」と「反暴力」は明確に違う。反暴力とは明確な暴力。国家が「いかなる暴力も許されません」と言う時に「でも国民を自殺に追いやったり戦争で殺されている」「だからこっちも自衛する」という構え。
わたし・・・
思ってたんだけど・・・
暴力反対って、そんなにおいそれと言えなくない?
暴力、手放せないよね。
誰かを侵略する暴力じゃなくて、身を守る暴力(威力行為)は必要。それは実際みんな思ってるやつじゃない?言論での対抗をするにしても、じゃあ上品なことばで、誰かを傷つけないように対抗することってできない。相手は必ず傷つく。それを回避することはできないもの。言論が暴力じゃないなんて思わないよ。
暴力を肯定することは難しい。銃社会の肯定にもつながる。
でもそれでも、国家レベルと民衆レベルを同等とみなして一律「暴力はダメ」とすることに疑問は持たないといけない。それほどに、国家の権力、暴力機関としての力は圧倒的なまでに強い。
暴力を振るわず、備えるだけにする力、それが知。
暴力史を分析して、どう反暴力と共存するべきか、どういう社会でなら反暴力が暴走しないか、そういうことを考える。結局はそれは、知能の力。
『死なないための暴力論』では、サパティスタ民族解放軍、ロジャヴァ革命など、「今のところうまくいってる反暴力革命勢力」を引用して、暴力を持ちながら暴力が暴走しない社会について考えていく。
時間がかかる。議論が要る。出しても出しても、どこかから不満が出る。
これを国家が全部担当しているのが今で、そして残念ながら国家権力は弱者のことを顧みることは少ない。
暴力の是非、暴力の議論をするべきじゃないかなと思ったのが強い感想。