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『君たちはどう生きるか』と『シン・エヴァンゲリオン』と『物語消費論』とで見る、金ローの思い出を拾い集める旅

 こんにちは、漫画読み中山今です。

 本日は専門外ではありますがアニメの感想・・・『君たちはどう生きるか』を書こうと思います。

 

 見ました?というか見ました??

 

 もし「今後見るよ」ということであれば、もうほんと・・・なんの情報も入れずに見てほしい(こういう映画体験って今時少ないからって理由です)ので、本エントリにご興味持っていただいても後々読んでもらいたいなあと思います。

 

一度は非公開にしていたこの記事ですが、2023/8/9、結構感想も増えてきたと思うので無料にしました。この感想がまた別な感想を呼べば嬉しいです。

 

 本エントリはある程度ネタバレもします。でもかなり偏った読み方で、本編の感想やエモーションを伝える記事ではありません。私の受け取った印象を言語化して、分析してみようという試みです。

 そのため、一回は観た方が読むことをお勧めします(もちろん観ていなくったって構いやしないのですが)

 

 私が『君たちはどう生きるか』を観ながら想起したのは『シン・エヴァンゲリオン』と大塚英二の1980年代サブカルチャー評論『物語消費論』でした。

 

 動画の読み解きは専門ではありませんが、どうぞご笑覧くださいませ。

 

 

 『君たちはどう生きるか

 

www.ghibli.jp

 

 

 ああ、これは遺作なんだな・・・・と強く感じました。

 

 物語は寓話を撚り合わせたようで、手ごたえのあるストーリーを求めるには難解です。

 あえて、導入までに起こったことを羅列するなら、

 

  • 主人公、眞人は、太平洋戦争時に入院していた母を火事で亡くした
  • しばらくして、父が母の妹と再婚。田舎の屋敷に引っ越して会った新しい母はすでに妊娠している。
  • 眞人は庭に住むアオサギと出会う。
  • 眞人は庭の奥の森の塔を見つける。
  • 眞人は転校した学校でイジメにあうが撃退。しかし、石で自分の頭の横に傷を作る
  • 新しい母が庭の森に消える。
  • 眞人は母を取り返すために塔に向かい、アオサギに導かれて死の国へ降りていく。

 

 つまり物語の目的は「死の国で母を探すこと」です。母とは死んでしまった実の母と、新しい母の双方の意味がこもっています。

 導入部分は物語として破綻はないのですが、眞人が自分の頭に石で傷を作る、ことは動機が不明です。

 

 この後のめくるめく夢のような出来事、ここからはひとつひとつ、深く分析していく必要があるのでしょうが、それは動画専門の考察に譲ります。

 

 私が抱いたのは、「これってシン・エヴァンゲリオンへのアンサーかな」という感想でした。

 

 『シン・エヴァンゲリオン』は庵野監督によるエヴァンゲリオンシリーズの総括の映画です。

 現実の時間で20年という永きに渡り、少年(シンジ)が成長しない物語。

 他の同級生たちや、下手すれば同級生の妹が自分より大人になっていくなか、一人時間を凍結された少年が、物語の最後で「声変わり」するという、圧倒的な「不可逆に成長した」ことを見せつけられた映画でした。

 『シン・エヴァンゲリオン』公開後、エヴァ好きたちは「そうか、これは大人になれ、現実に帰れってことか・・・」と納得する人が多発。

 私も劇場版1作目をリアタイ映画館で観て、(その後何作かすっとばし)『シン・エヴァンゲリオン』をまたリアタイ映画館で観た者として、「もうこの物語は終わったんだ」というメッセージはビシビシ感じました。ありがとうすべてのエヴァンゲリオン

 

 で、

 『君たちはどう生きるか』も、シン・エヴァンゲリオンと同じような構造を感じたんです。

 

 『シン・エヴァンゲリオン』では、おなじみ搭乗型ロボット・エヴァンゲリオン(実際、中身は使徒なのですがまあ要素として)のバトルで、突然背景が書き割りになります(それをエヴァが突き破ります)。

 つまり、エヴァのバトルがメタ構造になり、ドラマの撮影・・・もっと言えば「特撮の撮影現場で行われている」という状況になります。

 その後、カクカクしたCG~アニメの下絵の絵柄と、まるで特撮からアニメに至る、庵野監督の創作の軌跡をたどっているようです。

 

 『君たちはどう生きるか』にも、そのような宮崎監督の創作史を感じました。

 

 それは『シン・エヴァンゲリオン』のように順列に整頓されていません。

 物語の端々に、様々な「今までのジブリ」を想像させるアイコンを「見」ました。

 

 例えば、火の力を持つ少女が暖炉の火から飛び出てくるところ、これは『ハウルの動く城』のカルシファーの暖炉のようでしたし、眞人が建物に這う蔦を掴んで登る在り様は『ラピュタ』のパズーに似ていました。

 旅をアシストしてくれる女性の大きな口を開ける笑い方、これは『魔女の宅急便』のおソノさんのようだし、周りに群がるかわいらしい白い球状のオバケたち、これは『もののけ姫』の木霊のようです。

 物語の終着点である「大伯父様」は肩回りに大きな水色の半球のパーツをぐるりと装着していて・・・単純に言えば「王蟲の目」をイメージさせます。また大叔父様と抱き合う少女の絵は『ナウシカ』とユパを強烈に思い起こさせました。大叔父様は『ポニョ』のフジモトにも少し似ています。

 

 

 これらは一例です。ほかの作品の思い起こさせるシーンももちろんありましたし、もっとジブリに詳しければ更によぎるものがあるんじゃないかと思います(私はいくつか見ていない作品もあるので)。

 

 宮崎監督の作品はスターシステム(別作品のキャラクターが別作品に多少設定を変えて登場すること)的な似姿のキャラクター(『紅の豚』で登場するおばあさんが『ラピュタ』のドーラにそっくりなど)が登場することはままあるのですが、『君たちはどう生きるか』のジブリ表象は本当にそっくりなのではなく、結構異なっています。

 

 ただ、実は、ここで過去作品を思い出したか、思い出さないかで、このエントリの論はまったく見当違いなものになるはずです。

 でも、そう思って観ていただけると、たぶんけっこう「アッこれあのシーンじゃない!?」みたいに見えてくると思います。大叔父様とヒミが抱き合うシーン、あれユパ様とナウシカって思わない人いる?(いるかもしれないという前提は置いて)

 

 というわけでここは、私の「見えた」という視点を根拠に進めていきます。

 

 

 

 私は、走馬灯だ・・・・と思いました。

 

 

 『シン・エヴァンゲリオン』では、庵野監督の創作の軌跡を見せられて「もうこのお話はおしまい、現実に帰れ・・・」というメッセージを受け取ったんですが、『君たちはどう生きるか』の背景を考えるとき、それは遺書として受け取るしかありませんでした。

 庵野監督はまだ60代、シンエヴァを作った後はウルトラマン仮面ライダーのリブートに着手し、次のステップに入ったと感じられました。

 しかし宮崎監督はもう老齢です。この総括を見せられて、遺書・・・映像的に言えば走馬灯と受け止められるのは、クリエイターとしても察知するところではないでしょうか。

 

 しかし、その走馬灯は過去の焼き直しではなく、現状の技術の最高のものを使った走馬灯です。

 新しい母、ナツコの苦悶の表情など、『もののけ姫』のモロの君のようでしたが、今まで女性にこのような醜いまでの顔をさせたことはあまりなかったように思います。『ラピュタ』の雷雲の中のような稲妻の走る回廊も、極めて美しい色合いで表現されています。

 表現はクラスアップして、過去の思い出を振り返る。

 

 超贅沢な走馬灯です。ありがとうございます・・・。

 

 

 

 しかし、

 

 

 

 私ははっきり言ってジブリはそこまで観ていません。観ていない作品もちょいちょいあります。それでも、私は『君たちはどう生きるか』を、様々なジブリ作品の歴史、走馬灯・・・クリエイター宮崎駿の思い出の奔流だと感じました。

 私のような、とりわけジブリを「注視していた」という自負を持たない人でも、同じような感想を持つ人は多いんじゃないかと思ったりします。

 

 このあたりを1980年代に登場したサブカルチャー評論『物語消費論』で解明を試みたいと思います。

 

 

 

 

 『物語消費論』では、「消費」という行動がモノじゃない、ソフトじゃない、「物語」に移った、としています。

 

 例としてビックリマンシールを挙げているのですが(ビックリマンシールを知らない方はこちらをどうぞ)、ビックリマンシールという個のキャラクターの絵&説明を「小さな物語」、それを集めて浮かび上がってくる背後の「大きな物語」、これらを消費することと定義しています。

 

 小さな物語は「設定」と呼ぶこともできます。大きな物語は「全体的な世界観」とも呼ばれます。ビックリマンシールのキャラクターの設定ひとつひとつを収集してキャラクターの存在する世界観全体を想像する(クリエイターが作った固有のモノではなく、読者が収集し主体的な読み説きと発展で構成されるサブカルチャー消費)。

 

 『物語消費論』から思うのは、「日本のサブカルチャー享受者ってのは、ずいぶんと創作に参加してくるなあ」ということです。

 

 ビックリマンシールを集め、裏面に書いてあるキャラの設定を熟読し、キャラクター同士の相関図を作ったり、集団の勢力図に想いを馳せます。

 設定をバラして配置しておけば、視聴者自身が自らそれを集め、余白を想像でつなぎ、大きな世界観を読み込んでくれる、そういう消費の仕方です。

 

 『君たちはどう生きるか』でも、ハウルの暖炉のような設定の暖炉、おソノさんのような女性、ラピュタのような潜入方法、トトロのような「生えてはいけない生き物に這生えている歯」、千と千尋の神隠しの油屋のような回廊、風立ちぬのような戦況、借りぐらしのアリエッティのような生活など、『君たちはどう生きるか』の作品の中に小さなジブリ物語がちりばめられています。

 

 これらは、一度は該当のジブリ作品を観ている人でなければ集めることができません。

 

 でも私たち日本のテレビ視聴者は、金曜ロードショーで浴びるほどジブリ作品を観てきました。ナウシカラピュタ、トトロを複数回観ていくつかのワンシーンを覚えているというのは、けっこうある得る感覚だと思います。

 

 そのため、私たちはジブリ作品の過去の小さな物語を「収集している」と言えると思います。ビックリマンシールのように。

 

 金曜ロードショーから収集した「小さな物語(ナウシカラピュタの印象的なシーン)」をつないで浮かび上がってくる「大きな物語ジブリ宮崎駿の総括)」、

 

 と考えてもいいのかな、と。

 

 『君たちはどう生きるか』を1980年代のサブカルチャーの評論の理論で説明してみようと試みるとき、結構しっくりくると思いました。

 

 この40年、サブカルチャーの一線を走り続けてきて、日本の映画番組の「はずれの無い常連」・・・「消費対象」となったクリエイターの総括の映画が、時代のサブカルチャー論どおり「物語を小さくバラしてちりばめて、視聴者が拾い集める映画」になったなら、それはサブカルチャーの軌跡に沿うのかなあと。

 

 

 金曜ロードショーを心待ちにしていた時代がありました。

 今のように配信サービスが充実していない頃、新聞の番組欄で「今日の金ロー、ラピュタだ!」と大喜びする時代が確かにありました。

 そんな金曜日を繰り返し繰り返し過ごし、SNSでは23時20分ごろに「バルス」とつぶやいたり、「我が名はアシタカ構文」で遊んだりしました。

 そうして長い間集め親しんできた「小さな物語」が今、『君たちはどう生きるか』の中にちりばめられている。

 

 『君たちはどう生きるか』の全体像を把握するためには、何回も見る必要がありそうです。

 宮崎駿がバラまいた金ローの記憶のかけらを全部集めて「俺はこう生きた(創った)」ということが明らかになった時、「私たちはどう観る(生きる)」のでしょうか。

 

 

2023/8/6 中山 今

※2023/8/9追記&加筆